『私達は組織の何を「開く」のか?|市谷 聡啓 (papanda)|note』
組織の中に間違わないようにするためのガードレールを敷くべく、規程や標準を固めていく。そうして確かに組織は間違わなくなった。同時に、広大な可能性を手放すに至った。それは無意識の上での精神的「鎖国」だったのかもしれない。
門戸を開くのは外に向けてだけではない。組織の内でも、開く。これまでとは異なる基準や方法に関心を示し、試行する人たちが内部にも一定存在する。そうした人たちが動ける場や道筋を作ること、手がかりはそこにある気がしている。社内でパブリックな組織構造を前提としない「コミュニティ」を立ち上げることは、その細やかな一手。まず組織の中に眠る「関心」を見つけ出し、撚らねばならない。
閉鎖と開放を繰り返す、この国において次に必要なのは「開く」ということになる。使う道具やツールを変える、新たなビジネスモデルを作る、必要な人材教育を立て直す。何かを「変える」という意図の奥には「開く」があるように思う。これまでの経験や基準で判断するのではなく、開く。つまり、組織内にない知見を外部から得る。
また、大きな組織ほど「辺境」側が存在する。これまでの組織を担ってきた「中枢」から離れれば離れるほどに「辺境」が生まれる。従来のビジネスやサービス、商品開発と異なる活動が小さいながら育まれていることがある。たいていの場合、辺境ほど「外部」との境目が近い。自力で組織が変われないのであれば、外部からの力を借りるより他ない。辺境を探索し、その狙いを学ぶこと。あるいは辺境の活動を後押ししていくこと。センターオブエクセレンス(CoE)を立ち上げた後に、次にやることは組織の中を探索することだ。
外に向けて、また内側に向けても、開いていく。意図と方針は明確になるが、実行は前途多難だ。なぜなら開くのは方法や技術だけではない。人の「認識」こそ開かれなければ、変化は伝播していかない。組織における「認識」とは、厄介だ。文書やステートメントを書き換えれば変わるわけではない。
「認識」とは、そうした物理的な媒体を離れ、人と人の間に根ざしている。「認識」はやがて「常識」となって、組織をコントロールする。そこにはもはや明確な「旗振り」など存在しない。何のための最適化なのか? 事業なのか? 組織なのか? まともな回答がどこにもなくなってしまう。芯を見失ってしまった状態。そのこと自体に気付けず、組織は「最適化」を続けている。